「逃げる男・復刻版」に寄せて


~大人だってみっともない恋をする~

独りモンのいい年をした女は誰にも頼れない。
もっと詳しくいうと“いい年をしてフラれた女”は誰も頼れない。
いや、頼っちゃイカンのだ!
恋をした女は自分で落とし前をつけるしかないのだ。
責任転嫁などせず、恨まず、妬まず、腐らず、はじまりから最後に至るまで自分で責任をもって処理するしかない。
いくら苦しくても辛くても失恋はその人に与えられた試練であり、恋した人間に与えられた特権ともいえる。

恋は魔力。
この魔法はいつのまにかかかってしまうものでどうにもこうにも誰にも阻止できない。
またそれより困ったことにこの魔法に永遠にかかり続けていることはなく、いつかは解けてしまう。
その魔法を解くのは果たして自分からなのか?相手からなのか?

互いが納得し決別できればいいのだが、相手から一方的に別れを告げられたり去られてしまうと、誰でも戸惑い途方に暮れてしまう。
それでもその別れを受け入れなくてはならない。乗り越えなくてはならない。

若い頃は女友達と朝まで飲み明かした。連日出歩いて……友達で会うことで気を紛らわした。
そう、嫌なことや悲しみをぶちまけ、慰められることで落ち着き、幾度も友人の存在に助けられたものだ。

しかし年齢を重ねていくとそんな友達たちも環境や立場や生活の変化に伴い会うこともままならなくなってゆく。
特に結婚した友達らは旦那や子供のことで手一杯……。
もはや周りを見渡せば誰もが自分の生活を守ることが第一であり友達のことなど二の次、三の次……。
そう、私事などで(男にフラれたことなどで)大事な友達に迷惑をかけたり負担を与えてはならない。

いい年をした独り者の女は弱っていようが、相当なダメージを受けて参ろうが人を頼ってはいけないのだ。

職場や会社で仲良しぶっている同僚も腹の底は分からない。たいていこの類の女達は社交辞令が上手く要領よく人に話を合わせ、本音と建前を分けているだけであったりする。
誰かに何か困ったことや悩みがあっても表面では優しい言葉をかけ同情しながらも心の中ではベロを出しているような要注意人物。

また女子会で意気投合しさんざん盛り上がる女たちだって怪しい。男の前では突如として態度が変わったりする。口裏を合わせながらもぬけがけを狙っていたりする。
そう、うわべだけで実は腹黒い。

いい加減にいいお年頃を通り過ぎた女達は行き遅れながらも、表向きは「私は今のままで十分楽しいわ」「結婚なんて別に興味ないし……」などと余裕ぶっこいて独身生活の充実感をアピールし強がっている。しかし本音は結婚したくてもなかなか出来ないだけで裏では婚活に必死こいて焦ってたりもする。そんな彼女らは人の恋愛悲話や不幸話を聞いて安堵するのである。
また自分に決まった恋人やパートナーがいる女たちは彼氏がいない女に優位になる傾向にある。
特にクリスマスや誕生日やイベントなどの際、独り者に対して妙に勝ち誇ったような顔で優越感に浸る。
「アンタと違って私ってなんて幸せ者」……と。
女というのは何故に人の不幸や哀れな姿を見て“自分のが恵まれている”“自分の方が幸せ”だと感じるのであろうか?
また逆に相手の幸せな姿をまざまざと見せつけられると自分が惨めな気分になるのは何故であろう。

結婚式の時にバージンロードを歩く新婦は、まだ行くあてのない女友達に「お先に~」というオーラが出ており、キャンドルサービスも上から目線の余裕の笑顔。そして一方で主役である純白のドレス姿に身を包んだ新婦に祝福の拍手をしながら、独身女は心の中で舌打ちするのである。

「なんであの子が結婚できて私にはできないわけ?」
「キィーッ、悔しい」……というように。
彼氏がいること、パートナーがいることは勝ち組であり、女がひとりで居ることは世間からみれば「アンタ負け」……という勝負的な風潮。

いい年をした男の独り者と違い、“女が一人でいること”を見る目……世間というのは厳しいのである。

それ故、女は人の別れ話や不幸話を聞いて自分の幸せを噛み締める。どっちが幸せかを比べたがる。
「いい気味~」「私でなくて良かった…」「人の不幸は蜜の味」…と。

そう、だから“別れ”は自分で消化するしかない。
傷を治すのは…そう、己の力であり、自然治癒しかないのだ。
(※ただ厄介なことに年齢を重ねると自然治癒力が低下しすぐ治らない)

いくら凹んでも、キツくても、傷がデカくても……自分で回復させなくてはならない。不安に押しつぶされそうになりながら一人の寂しい夜を過ごし、耐え忍ばなくてはならない。

人は別れの辛さを知りながら、別れた後の苦しみを味わいながらも、その傷が治ると性懲りもなくまた誰かに恋をしたり、誰かと関わろうとする。
人は人を求める。

また恋愛というのは年齢を重ねるごと分が悪くなる。
仕事の忙しさにかまけそれを言い訳にし、また日常生活に追われていると純粋に人を想うことや付き合うことが簡単ではなくなってくる。
そして、容易でないからこそ“ようやく出会ったもの”に執着し、“やっと掴んだもの”を手放したくなくなる。また「これは運命なのよ」と、かこつける。
「この年になってこの恋(この人)を逃したら、もう次がないんじゃないか?」……と、怯えて不安になる。
そして相手を、自分をも結果的に追い詰めてしまうのだ。

悲しいかな恋ができてもそれがうまくいくとは限らない。
そして誰かと付き合ったとしてもそれがいつまでも続くとは限らない。
恋の成就は破綻に通じているともいえる。

誰でも相手を失いたくない。しかし失いたくないと思えば思うほど空回りする。
悲しいかな、好きになればなるほど、逃したくなければなるほど上手くいかないものである。

誤解、すれ違い、行き違い、些細なケンカから言い争い、分かり合えないもどかしさ…そして予期しない突然の別れや納得のいかない結末が待っていることのほうが多い。

恋は感情が優先する。理性も知識も経験も全てぶっとび、役立たず。計算も駆け引きも出来ないお馬鹿さんに成り下がる。本能のまま、冷静でなどいられなくなる。焦燥感が生まれ、いっぱいいっぱい。余裕などなくなる。……そして失敗する。

自分から好きになった相手や大恋愛すると振られることが多い、というのは感情に支配されるからである。
己の感情に振り回され制御できないのだ。
自分が夢中になるとつい追ってしまう。そして相手は重くなり逃げたくなる。

本来、男は女よりもストライクゾーンが広い。
男は女ほど異性や人の評価には厳しくないし、あーだのこーだのイチイチ注文つけたりはしない。余程のことがない限り男性の方から女性を嫌うことは少ないともいえる。

……なので男が「もう無理」「ウザイ」と思うのはまさに重くなった時である。
自分の生活や自分の世界が侵されそうになったり脅かされた時に逃げたくなるのだ。

男と女の脳が違うのは知っていても女は好きな人には自分をわかってもらおうと躍起になってしまう。
好きな相手にアレコレ伝えようと、自分をさらけ出してしまうのだ。
時としてそれが男にはNGだったりする。

面倒な事が嫌いな男はフェードアウトする。
基本的に男は話し合いが出来ないし好きではない。追い詰められるのが苦手なのでそそくさと退散する。

逃げ足の早い遅いはあるだろうが、「ヤバくなるんじゃねぇか」と危険を感じると尻尾を巻く。

私は身を持ってそれを体験している。

ここに登場する「逃げる男」は突然消えた。

何も告げられす、一方的な別れであった。
最初はこの事実を受け入れらず苦しんでいたが、しばらくすると“いい年してフラれた”この惨めさが怒りに変わり、この思いが原動力となり「逃げる男」の原稿につながった。
怒りとは時としてエネルギーに転換するのだ。

生きていると理不尽なことが山ほどある。それに何度もぶち当たり挫折する。
恋愛だけでない。
自分の努力や精神論では変えられないものがある。
組織や社会の常識や建前。
実力主義とかは嘘。コネや金や権力がものをいう世の中の可笑しな仕組み……。
綺麗事をいいながら裏では上下関係のセクハラやパワハラ、男女差別などたくさんある。
軋轢、圧力、……納得できないこと、ままならないことがいっぱいある。

でも、いろんなことに満足でき、やることなすことうまくいき、学歴や富を持っていたら……
世渡り上手で、要領がよい人間だったら……
私はきっと書いていなかった。

「逃げる男」を誕生させることなどなかった。
起こってしまった出来事や身に降り掛かった事件に対し素直に受け入れられていたら書いていなかった。
上手くいかないことだらけでジタバタしているからこそ書き始めたのだ。
「コンチクショ~」
「悔しい~」
人間関係、男女間、そこから発生する思い、絡む感情。
仕事や家庭環境や男やいろんなことに対し割り切れず納得できずにいたからこそ訴えたくなったともいえる。
「ま、仕方ないよね……」と目をつぶれなかったのだ。
“不満”を抱えたままで終わらせたくなかった。何もなかったことにしたくなかった。思いを形跡にしたかった。

またそれを形にすることで似たような体験をした女性や落ちみ悩んでいる人が一緒に怒り、吠え、また元気を出してくれたら……と執筆したのだった。

この「逃げる男」は2006年に出版され絶版(笑)となり一度埋もれたものだが、このたびこれを復刻しようというお話をいただいた。

しかしこの馬鹿さと情熱で書いたこの原稿をまた送り出していいのか?

「逃げる男」は神崎桃子の処女作であり愚作である。
もちろんいい加減に書いたというわけではない。自分のエネルギーを注ぎ込んで書いたものではある。
魂そのものでもある。
そういう意味では力作(?)かもしれないが、その頃の自分と今の自分では文章を書くことへの取り組み方や作品を生むことへの方針や解釈が違う。
ただ、思いの丈をぶつけて勢いや情熱に任せ書きつらねた荒削りなその当時の自分、と今の自分とは全く違う。
そして文章の構成や表現力、描き方、言い回しや見せ方も絶対に違うはずなのだ。
その頃の全くなってない自分……。未熟な文章であると同時に“未熟な自分”をさらけ出すこととなる。
それを読み返したら恥ずかしくて恥ずかしくてすべて書き直したくなるに違いない。

そう、大好きな人や片思いしてる人に書いたラブレターと同じ……。
熱意こめ思いをこめ何時間もかけて完成させる。
「できた!」
その時は素晴らしい出来上がりと思い込み自己満足する。が、一晩寝かせ翌朝再び読みかえすと「とんでもない」!となり赤面するのだ。
よくこんな事かけたものだと……。とても出せるシロモノではないと……。
可愛い便箋はビリビリと破られるハメとなる。

まさにそんなイメージである。
しかも、そんなラブレターのように“こっ恥ずかしい原稿”を書いたのは昨夜でなく数年前!!
イコール、ひと昔前。
そのころの流行りとか言葉使いとか用語なども今使用すれば実に古臭い、時代にそぐわない部分も多くある……。
許されるなら「新・逃げる男」もしくは「イマドキ版・逃げる男」として今風に蘇らせたい。

しかし知人や当時の「逃げる男」を購読された読者さんからこう言われたのだ。
「古いままで十分。イマドキにせず昔っぽさも含めて出して欲しい」
「その頃を知らない読者さんが当時を知る上でとても貴重な記録(資料)ともいえる」
「当時の未熟な部分や恥ずかしい部分を披露する、それを見せてこそ人に元気と勇気を与えるのが神崎桃子のキャラでないか?」

……私は押入れを捜索し、封印していた「逃げる男」を引っ張りだした。

最初は自分で書いたものを読み返すことなど恥ずかしかったが、懐かしさと愛しさ、久しぶりの再会にちょっと胸キュンだった。

そして一気読みした。

「……全く、私ってなってないなぁ」。
物書きのハシクレとしてとんでもない文面にツッコミを入れダメ出ししている自分がいたが、
しかし、それと同時にホッとしたのだ。
「私って全く成長してないなぁ」……変わってない自分に、同じ自分に安堵していた。
何年も前に綴ったものなのに、当初と同じ気持ちになれたのだ。

勿論、みっともなく乏しい表現力ゆえに直したい部分が山ほどある、だがこの文章や文体などは別にして、
私は今ここでまた「『逃げる男』を書いてみろ!」と言われたらきっと同じ軸で書くと思う。いや、同じ事しか言えないような気がする。
私にとって「逃げる男」の切り口で誰かに伝えたいことや思いは今も昔も変わらないのだ。

人を好きになるってぇのはやはり愚かで馬鹿になることなんだ……と。
年齢重ねても恋すりゃ皆みっともなくなるんだ……と。
ああ、大人になって少しずつ自分が傷つかないように立ち回ろうとしてたんだな……と。
ひたむきになることは素敵なことだと…
ずる賢くなることが成長ではないと……。
熱くなると駆け引きや計算などできなくなると……。
好きになるあまりに人は相手も自分を追い詰めてしまうものだ……と。

感情を変えることは誰にもできない。
年を重ね、時代が変わっても、自身を取り巻く環境や状況が変貌しても、その人の感情や思い自体はそうそう変わるものではないのだ。

それは変わらなくていいものであり、無理に変えなくていいものなのだ。
生きていく上でさまざまな知識や余計な知恵がついたとしても抱く感情はさほど変わらない。

……だから、人を想う気持ちも、人を失う惨めさも、苦しみも、虚しさも、スレ違いも、うまくいかないもどかしさも……全て人と出会い、関わってるからこそであり、人が同じことを繰り返すのは当然なのだ。

これから先も、生きていく限り、このことは繰り返される。
人を求めていく、交わっていく、とはそういうことなのだ。

私は恋でも仕事でもなんでも「うまくいく、いかない」「良い、悪い」「◯・?」「正しい、正しくない」でなく、結果論よりも、過程、行程、そのものが人生だと感じた。

だから、結論や答えなんてホントはどうでもよくって、たとえマルよりバツ印が沢山であったとしても自分が“なんかやらかした”という足跡や印がたくさんあればいいのではないか?
それがその人の色ではないか?

自分の人生を彩るのは「体験」「失敗」「積み重ね」であり、それが私そのものなんだ。

それを“なかったこと”にする必要も、見栄えよく塗り替える必要はない。
自分の痛い経験や失敗を封印するのではなくちゃんと披露するのだ。

もう一度さらけだそう!みっともない自分をさらけ出そう!

そうすることで誰かに元気や勇気を与えたい!!

私はますます書きたいと思った。

せっかく、沢山の出会いや別れを繰り返し、様々なアクシデントに遭遇し、失敗してきたのだ。
小石につまずいたり、ものの見事にすっ転んだり、電信柱につっこんだり、あっちぶつかりこっちぶつかり……
この傷こそが神様がくれたプレゼントなのだ!!
この痛い思いを生かそう。
経験、積み重ね……そこから生まれた感情やアリサマを描かないなんてもったいないのだ。

「逃げる男」を見つめて決心した。
「もう一度書こう!!」

と……。
そして、2012年6月に「恋愛サファリパーク~必要なのは女子力よりサバイバル力」(すばる舎)が誕生することとなる。
お陰様で、大手電子書店2012年上半期恋愛実用部門で1位となった。

まさに愚作「逃げる男」は神崎桃子の原点であり、これをなくしては今の私はいないのである。

夢を捨てきれず、もがき続ける諦めの悪い女
酸いも甘いも味わい尽くす体験型恋愛コラムニスト 神崎 桃子

カテゴリー: 逃げる男・復刻版